いらだちの日々と、安らかに死ぬこと
継続することはあんまり得意ではないけど、新しくはじめることはわりと得意な家清です。
メディアは狭いところから広いメディアに移動すると、もう前の狭いメディアには戻れないそうです。
コンテンツは変わらなくても、新しいものにみんな移動して、環境がそのものが変わってしまうのと、それにともない更新や成長がとまり、すぼんでいくのだと思います。
人についても同じことで、たぶん、悪い方向に進んだり、落ちぶれたりすることが、その人を過去にするわけではなく、変化すること、成長することをやめたときに過去の人になるんだろうな、なんてことを考えました。
過去になりたくなかったら、老人になっても、変化や、成長を続けないといけないわけで、それって結構大変そうだなと思います。
だから、どのタイミングで過去の人になるかの見極めというのも大切なのかと思いつつ、わたしが高校生の頃、好きだった歌詞を思い出しました。
パブロピカソは死ぬまで上り坂だったらしいね
僕はピカソに憧れてるんだ。
「いらだちの日々」_真心ブラザーズ
パブロピカソは死ぬまで、過去の人にはならなかった。
そういう生き方もあると。
そして、次の文章はわたしが大学生の時、小説を読んでいて、見つけたものです。
奇妙なことに人間にはそれぞれにピークというものがある。そこを登ってしまえば、あとは下りるしかない。それはどうしようもないことなのだ。そしてそのピークが何処にあるのかは誰にもわからない。まだ大丈夫だろうと思っている、そして突然その分水嶺ががやってくる。誰にもわからない。あるものは二十歳でピークに達する。そしてあとはあまりぱっとしない人生を送ることになる。あるものは死ぬまで上り続ける。あるものはピークで死ぬ。多くの詩人や作曲家は疾風のように生きて、あまりにも急激に上りつめたが故に三十に達することなく死んだ。パブロ・ピカソは八十を過ぎても力強い絵を描き続け、そのまま安らかに死んだ。
「ダンスダンスダンス」_村上春樹
わたしの好きな歌にそっくりな内容だったので、びっくりしたのを覚えています。
ただの偶然かもしれないと思いつつ、前に音楽雑誌で「いらだちの日々」を作詞したYO-KINGさんが「ダンスダンスダンス」の前作にあたる「ひつじをめぐる冒険」を読んでいる記述があったので、まったく無関係ではなさそうな感じです。
それでまあ「いらだちの日々」の対義語はおそらく「安らかな死」なので、「どのタイミングで、過去の人になるかの見極め」なんてつまらないことを言わず、やはり「どうすれば死ぬまで何か自分がやりたいことをやり続けられるか」を考えて生きていったほうが健全だなと思いました。
わたしはまだまだいらいらして行きたい!
いつぼさん
山椒茶、試したんですね!
体がだるくなる=リラックス効果があるということなのかもしれないので、意外と使えるかもしれません。
そういえば、わたしもよく本を読んでいたときは、読まずにはいられない感じでしたし、音楽にしてもそうでした。
わたしもノートをつけながら、内圧を高めていきたいと思います。
今日の活動
ヤフー知恵袋で、「イライラや、怒鳴ることは病気なのか」という質問があったので、病気で済ましたくないところではありますが、病気が原因の場合もあるよと答えました。
わたしも病気にならない程度にいらだちの日々を過ごしていきたいです。